ランチア「デルタS4」はWRCがグループB規定によって開催されていた際、他のマシン達に対抗するためにランチアが送り出した狂気のモンスターマシン。
それがランチアデルタS4です。S4のSはイタリア語で「Sovralimentata」、つまり「Super Charged」という意味です。
S4の4は4WDという意味ですので、そのまんまですね(笑)
ランチアデルタS4のスペック
エンジンはフィアット製の直4DOHCエンジン(1,759cc)のエンジンにターボとスーパーチャージャーを組み合わせたツインチャージャーを搭載。これをミッドシップに縦置きしています。
最高出力は600馬力にも到達したといわれ、昨今のスーパーカーと比較すると大して凄くないように思えますが、デルタS4が走るのは狭い公道を封鎖しただけの場所。
車両重量はわずか890㎏。軽量プラスチックとケプラーで極限まで軽量化された車体と有り余るパワーはまさに狂気の沙汰。
1980年代のWRCはこんな車たちがひしめき合っていました。
狂気のマシンを唯一操れた男
恐ろしいスペックのデルタS4ですが、この車はプロドライバーですらその性能を引き出せないという代物でした。
そんなデルタS4を唯一操ることができたといわれているのが「ヘンリ・トイヴォネン」という若き天才ドライバーです。
若き天才ヘンリ・トイヴォネン
WRCにてわずか3勝をあげるのみにとどまっていたにもかかわらず、彼はWRCの歴史で今もなお語り継がれる伝説的存在です。
1985年末にWRCに投入されたデルタS4を駆るトイヴォネンは、最終戦RACラリーにて勝利を収めました。
1986年の初戦ラリーモンテカルロでも勝利をあげ、最強のマシンとトイヴォネンのタッグは一躍名をあげたのです。
シーズン途中のツールド・コルスでも2位以下を圧倒的な差をつけフランスのコルシカ島を爆走するトイヴォネン。
しかし、トイヴォネンはツールドコルスのコルテ・タベルナというセクションで崖から落ちマシンは激しく炎上。
トイヴォネンは還らぬ人となってしまったのです。トイヴォネンですらデルタS4を操り切ることはできなかったのです。
その後、4度のドライバーズタイトルを獲得したユハ・カンクネンはこう残しています。
「彼が生きていたら、俺はこんなに勝てていなかった。」
グループBの終焉
グループBでは度々死亡事故が発生しており、グループB規定のマシンは人間が操縦するには危険すぎると論じされていました。
そしてトイヴォネンの死を引き金に、グループBは危険すぎると公式的に判断され、同年でグループB規定の狂気のマシン達は表舞台から去って行きました。
グループBとは?
今さらですがグループBとは何か?レースといえどどんな車でも参加していいわけではなく、ベースとなる車両は規定によって定められています。
グループBの内容は「1年間に200台生産された車」であればベース車両として認められ、それをベースにした「エボリューションもでるを20台生産した車」であればエボリューションモデルをベース車両とすることができました。
一言でいえばなんでもありということであり、このレギュレーションがパワー競争を大きく加速させたのです。
デルタS4の動画
下記はヘンリ・トイヴォネンの追悼動画です。
無冠の帝王
狂気のマシン「ランチアデルタS4」が表舞台で活躍できたのはわずか1年間。ランチアがWRCに投入したマシンの中で唯一何のタイトルを獲得できなかったため、「無冠の帝王」とも呼ばれています。
記録ではなく記憶に残るランチアデルタS4。人間では操ることができなかった狂気のマシンは、今後も語り継がれていくでしょう。